咸錫憲(ハムソクホン)の「シアル思想」における社会正義

― ガンディーとの影響関係を中心に ー

関西学院大学大学院神学研究科研究員                    

(パク) 賢淑(ヒョンス)

咸錫憲は、日本留学中の19241927年まで内村鑑三の聖書研究会に通いキリストと民族を愛する信仰の姿に魅せられ、帰国後、仲間6人と無教会雑誌『聖書朝鮮』を発行し、内村と無教会思想を紹介した人物である。彼の「シアル思想」の「シ」は種子、「アル」は粒(実)をあらわす韓国語で「シアル」とは転じて「民」を意味しているが[1]、民が四民すなわち土・農・工・商を表わし、支配と被支配の封建時代を前提としているのに対し、シアル思想は民主主義と未来を表す意味で土着の言葉である「シアル」を用い[2]、今日、歴史的経験と実践の中で形成された韓国の典型的な土着神学として、評価されている[3]

これまで咸に関する研究は、主に内村の聖書研究と民族理解、預言者的姿勢の面から取り上げられてきた傾向にある。しかし、これらの先行研究においては、神の御言葉の信託者である預言者が聞き手の民衆とどのような関係にあるのかという視点は欠けていたと言うことができる。無論、咸には預言者的な自覚があったものの、191931日の民衆自ら起き上がった独立万歳運動の体験を通して、咸は自分自身を一人の預言者であると同時に、一人の民衆(シアル)として捉えるようになった[4]。このような視点は、内村鑑三の預言者的姿勢に加え、ガンディーの貧しい人の生活保護と向上のための奉仕と、ヒンドゥ教徒として内面生活に目を向けた無抵抗主義に多く触発されたものである。というのは、咸錫憲は「シアル思想」萌芽期の19342月~193512月に『聖書朝鮮』に連載された論文「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」の中で、既に「民衆」を歴史の主体として捉え、歴史家は「民が生きる、その歴史を造る力を得るため読みたがる歴史を作り上げ、民が食べることのできる思いやりのある歴史を書き上げる責任がある[5]」と、民のための歴史教師として自分を捉えているからである。また、民衆化闘争の時に「私の抵抗運動には支えてくれる組織も、集団も、教団もなく、ただシアル(民衆)のみがいるのみ」と言っていたとおりである[6]

この論文では、ガンディーとの影響関係を通して、咸錫憲の思想が連載論文著作の時期とその後における民衆化運動の中で、咸が一人の「シアル」として果たした役割を考察していくことを目標とする。Ⅰでは、内村鑑三の無教会に見られる「預言者」像と、咸錫憲の論文に見られる「民衆」が、社会正義とどのように関わっているのかについて論じ、続くⅡでは咸の連載論文「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」著述におけるガンディーとの影響関係を中心に1950年代後半の無教会離脱について言及する。続くⅢでは、197080年代における韓国の宗教状況と咸のシアル運動を考察し、Ⅳで東アジアにおける宗教性の課題を咸における社会正義との関係で論じていく。

 

Ⅰ. 無教会の「預言者」的な姿と咸錫憲の「民衆」

正義は古代哲学でいう基本的な徳(正義、知恵、節制、勇気)の一つであり、旧約聖書のアモス書ではその中心的観念であった。以後の預言者たちも「社会的な正義」すなわち、略奪、圧迫、階級的な利己主義、虐政への批判を行った。

内村鑑三の影響を受け帰国した咸は、教育現場において朝鮮の歴史を教え朝鮮の歴史に対する思索を続ける。雑誌『聖書朝鮮』の連載論文「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」の序論と結論では、「民衆」が歴史の主体であるという民衆史観を提示し、自国の歴史を「苦難の歴史」であると解釈している。咸にとっては、1919年3月1日独立運動の際に、その準備過程から積極的に参加することによって刺激された民衆体験が[7]、五山学校での学びと内村との出会いを通して熟慮され、連載論文を著すことで言語化されていったのである。

土肥昭夫は、内村のモットであった「二つのJ 」が一連の社会運動を解明する鍵であり、それに

よって彼は「正義」と「平民」という概念を見出していたと指摘する。すなわち、正義の上に国家を立たせるように努めることが愛国者の責任であり、それ以外によって国家の隆盛をはかる者は偽善的愛国主義者である、という見解である[8]。ここに見られる内村の平民とは、人間の内面への働きを含む貧しい者と病める者への働きかけるものを言う。内村はイエスを平民の一員として理解しており、ここに咸の民衆理解と重なり合う部分がある。 

 咸錫憲が内村鑑三に出会った1924年頃、咸は内村の聖書研究会に通う一方、ガンディーの著

作を読んでいた回顧しているように、咸の社会運動の思想的な背景には、キリスト教、民族主義に加え、ガンディーの非暴力、無抵抗、平和思想が含まれている[9]帰国後、1934年~35年の連載論文『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』において、歴史の主体を民衆に置いたことは、このこととの影響関係が認められる。

一方、咸とガンディーの両者には、トルストイの強い影響が認められるが、それはガンディーが南アフリカに開いた農場はトルストイ農場であり、咸錫憲も何度も農場生活を実践しようと試み、五山時代から信仰、教育、農業の三つを結合する「消極的な抵抗運動」の理想があったからである[10]。トルストイは、イエス・キリストはマタイ五章の「山上の垂訓」の戒めによって神の国を建設したのだと確信し、その「無抵抗主義」を評価した[11]。トルストイは、この垂訓を個人の心の領域に限定せず、具体的に政治、経済、社会制度に結びつけ、世の隅々にこの垂訓が反映され実践され積極的な行動をとる事を主張し、そのように行動出来ない教会の罪性を指摘するようになった。

それでは、咸錫憲のシアル思想とガンディーの民衆はどのように関わっているのか。咸は、歴史が向かう目標、すべての精神的・物質的な活動の目標なるものを「神と民衆」に置いている[12]。今日、歴史の目標が間違った方向に赴いているのは、宗教が自分の役割を果たせず、神と民衆の中間に立ってその直接な出会いを妨害するためであり、そのことが「(民衆)シアルの悲しみ」となっているのだ、と理解するようになったのである[13]。無教会の預言者的な姿を丸山真男は、「古代イスラエルの預言者が、律法のステロタイプ化を打破し、それに新たな生命を吹き込もうとするために、必然に祭祀と儀礼の日常化な執行者としての僧職官僚制と鋭く対立し、そのためにまた、既成の社会的階層と価値の階層との癒着をひきはがして、直接下層大衆の散在的なエネルギーを解放させる方向に赴かざるを得なかった、あのラディカリズムと内面的根拠に立っていた」と無教会の預言者的姿勢と民衆の構造的な関係を解釈しているが[14]、このことからすると、咸は、無教会への自己批判を徹底的に行なった結果、一人のシアル(民衆)として預言者的な生を生きる「シアル思想」を展開して行ったと言うことが出来るのではないだろうか。

 

Ⅱ. 「苦難」、「神と民衆」におけるガンディーとの影響関係

  ガンディーが言うところの生命の「第一原理」である苦難が、咸においては民族の苦難を美化することなく、正面突破して新しく展開していく勇気を促したと言うことができる。暴力は、相手に苦痛を与え、それによって自分を堕落させるが、非暴力は自覚した苦悩であり、自分に苦痛を与えることなのである。「非暴力」は単に聖人たちのためのものではなく、一般の人々のためのものであった[15]。ガンディーの功績とは、民衆の「魂の力」を説きつつ、民衆の本性とその内にひそむ力を彼らに知らせたことにある。ガンディーに触発されたことが政治的運動に参加する契機となったネルは、ガンディーの民衆への思いを「ガンディーのただ一筋の、しかも多面的な性格から受ける一番強い印象は、大衆との一体化であり、大衆との精神的統合であり、インドのみでなく、また世界中の無産者、貧困者、困窮者との驚くべき一致の観念であった」[16]、と回想している。

そのようなガンディーにとって、人間的真実とは、神の真実に関する概念にまで深められて行くものであった。ガンディーの「永遠の真実」がインドの下層社会の人々に信じられている宗教思想は行動を重んじ、私心のない献身奉仕を重んずるバクチの教義と深く関係している[17]。そのため、ガンディーは神を求めるにあたって、同胞への積極的で献身的な奉仕、こと社会の最下層の人々に対する奉仕を通じて神を求めようとしたのである。このような、ガンディーの宗教心に起因する民衆への関心と奉仕は、これまでキリスト教にのみ救いを見出そうとしていた咸錫憲の民衆思想により広い視座を与え、他宗教にも宗教上の真理を認める宗教的寛容への糸口を与えたのであった。

1950年6・25韓国南北戦争の時、咸は避難先の釜山の古本屋で、イギリスのEverymans社の文庫版『ギーター』を見つけ、『ギーター』を韓国語に翻訳するなど、韓国の宗教思想で咸ほど『ギーター』に通じていた者はいないほどであった。195253年における咸の無教会脱会宣言が、ガンディーの書物と『ギーター』精読後に断行されたことから[18]、「シアル思想の萌芽」におけるガンディーの影響は多大なものであると言うことができる。咸は、特にガンディーの実践性、行動主義の思想に多く共感し[19]、ガンディーこそキリストの精神を最も真実に実践した人である、という見解を持つに至った。咸錫憲がガンディーをキリストの真理を最も真実に実践した人であると理解するようになったのは、民衆への愛を貫くために行ったその「非暴力的不従順」においてであった。道徳と他一般精神に関する事柄をガンディーは、理性ではなく心臓に訴えるような精神生活の実例を示す方法を示していた。それは、アメリカのキリスト者で太平洋戦争直前の日米交渉で活躍し、後にキリスト教アシュラム運動を展開したスタンレ・ジョーンズが、「キリスト教がインド人の生活の一部となるように普及させるには、どのような方法によったら良いか」、とヒンドゥ教徒のガンディーに質問したところ、ガンディーは、「第一に、あなたがたきリスト教徒、宣教師、その他の人々が、もっとイエス・キリストに近い生活をすべきです」、と答えたとほど、ガンディーは生活の実例を通して宗教と精神を説こうとしたのである[20]。咸錫憲は、そのようなガンディーの言うイエス・キリストに倣う生活を全うすることに専念し、それを韓国の土壌で模索した結果、無教会を離脱した以後も、シアル思想と民衆化運動を展開して行くことで神の真実に近づいて行った、と言うことができる。

咸錫憲研究家の金成洙は、咸の日本留学当時(1920年代)、内村鑑三の影響は圧倒的なものであったということを認めつつも、それから10年後の1930年代後半、咸は内村の思想から脱皮しようと苦心しはじめ、1940年代初半になってからはキリスト教に対する自分の考えが内村の観点と相違していることを自覚していた、という見方をしている[21]。というのは、無教会運動は、垂直的関係を強調し、会員間の水平的で対等な関係に欠き、現実世界と世俗の人々との関係が緊密でなかったが、咸は祖国における政治権力の民衆弾圧に応戦し、行動することを自分の使命として受け止めていたために、現実から離れた宗教は意味を持たなくなったからである[22]

無教会離脱後、咸錫憲のキリスト教に関する信仰と思想は、内村鑑三の無教会思想に強く根ざしていながらも、「神の足に蹴られて」クェーカーに迎え入れられるようになる[23]。クェーカー派は信仰の共同体であったが、咸がその老年に強硬に展開した軍縮・反核運動の平和運動は、このクェーカー派を通しての社会運動であった、と言うことができる。クェーカー派は、キリスト教界の中では少数集団や社会問題に大きな関心を展開した宗教勢力であったため、国際的背景を持つクェーカー派が咸の社会運動における大きな支持基盤となった。

 

Ⅲ. 197080年代の韓国における宗教状況

これまで述べて来たシアル思想の萌芽期を経て、1950年代の咸錫憲は大多数の宗教人、知識人が口を開けない恐ろしい沈黙の時代に、政治権力を叱咤し、雑誌『思想界』を通してキリスト教会への批判をするに至った[24]。咸錫憲の社会運動は、三つの側面で展開されたが、第一は、単独で展開した講演を通しての社会批判発動であり、第二は、弟子もしくは信仰の同志と共にした共同体運動、第三は、知識人と共に在野勢力を構成し、政治権力に挑戦した政治参与運動であった。そして、この三つが総合的に結集されたのが雑誌『シアレソリ』を通しての「シアル集い」であった[25]

咸にとって「自由と正義」、「宗教と政治」は、ガンディーの場合と同様、不可分の問題であったため、「愛と服従」を強調した韓国教会の姿勢は卑屈と偽善にうつったのである。 今日、咸が「韓国のガンディー」と称されるのは、このような根本的立場の類似に由来するものである[26]

1950年末、自由党の李承万(イスンマン)独裁を批判、5・16を軍事クーデターと見通し、1960年軍事政権を正面攻撃した。1970年代は朴正熙(パクジョンヒ)の維新独裁を、1980年代には全斗換(チョンドウファン)の光州民衆虐殺を批判する大衆講演と執筆を行ない、恐れないで民主化運動と人権運動を導いた。しかし、常にシアルたちに「非暴力原則」を強調し、それを貫いたため、過激な在野運動家たちから「あまりにも穏健な方法だ」という批判を受けたりもした。

咸は、これらの非暴力抵抗運動に加え、幾度となく農場共同体に関わるなどの実践的な社会運動を試みている。1957天安(チョンアン)のシアル農場はキリスト的な共同体運動であり、礼拝共同体、食卓共同体である同時に、農業を通しての生産共同体であった。彼らは労働すると同時に、聖書研究、東洋の古典思想研究に至るまで進行的人格を養うことに尽力した。60年代初半には、非武装地帯に近い間城の安盤徳シアル農場を開いたこともある。1970年代初半のクェーカー派を中心に行った平和運動は、軍事独裁の維新体制に対抗し、イエス思想とガンディー思想を中心に行われたのである[27]

1955年の雑誌『御言葉』、1970年『シアレソリ(民衆の声)』を創刊し、シアル思想を社会全体に伝える新しい言論を通じての社会運動を巻き起こした。この時期になってようやく、韓国知識人たちは、歴史を導いていく力は民衆自らが悟り、磨くことで生じると自覚するようになり、民衆を覚醒する道に進んだ。中でも、『シアレソリ』は、反体制知識人集団に、同志的な連帯感を形成することに役立った。1971年朴大統領の三選のための改憲に反対する闘争委員会、民主守護国民協議会が組織され、1974年には民主回復国民会議を、1976年には3・1民衆救国宣言発表に至った。

 

Ⅳ. 東アジアにおける宗教性

咸錫憲は、1976年には「民主救国宣言」に名を連ね、民衆化闘争の象徴的存在として自らの信念に殉じ[28]、それを通して、経済開発の矛盾と政治的抑圧の苦しみに耐えながら開発を担って来た民衆が、正義、自由、民主思想の中で自らの尊厳性に目覚めることを韓国社会に促した思想的基礎付けとなった。  

アジアは倫理的にイデオロギーの問題と正義の問題を抱えてきたと言われている。イデオロギーは国家体制を持続させる問題であり、正義の問題はその構成員全体の生の問題であるが[29]、これに対し、C.S.Song(宋泉盛)は「アジアのキリスト教会が決定的な状況に直面している時、それを解決しようとする勇気を持ち備えてなく、信仰によって受け入れられる典礼や法規、良く定義された伝統のみを受け入れそれを中心テーマにしようとする」、と批判し、教会中心主義から解きはなたれることを主張している[30]

そのことからすると、1970年代韓国におけるキリスト教会の量的成長は、注目すべき業績であると同時に、韓国キリスト教と質的低下の大きな原因であった、と受け止められている。197080年代を通じ、政府に批判的な進歩的クリスチャンは、韓国のキリスト教全体においては少数グループであった。しかし、当時の重要な時局声明書署名者の69%がこの進歩的キリスト者であり、人権運動参加者の445%を占めていたほどである[31]。しかし、同時に、「韓国カトリック二百年、プロテスタント百年の歴史に一つだけ明らかな事実は、伝播した時、下層社会の不幸な民衆の宗教であったキリスト教が、今は中流階級の宗教になってしまったということだ。中流には中流意識がある。いつとはなしに現状維持を願う気風が教会の中を満たしてしまい、その結果、カナンの願い[32]が現状維持へと堕落してしまった」[33]、という咸の鋭い批判を受けている

 

結び

昨今の東アジア・キリスト教における宗教性は、経済的格差に起因される一握りの人々の富と知識の片重をどのようにして社会全体が共有できるのかという問題と、政治的な不義にどう対応するのかという問いに立たされ、積極的な取り組みが求められている現状にある。

ガンディーの非暴力抵抗運動への参加を契機に、今日のインド国内外、世界各界におけるインド女性の目覚しい指導的な活躍を考慮すると、儒教の強い影響による東アジアの男性的な社会構成を私たち宗教界が率先して克服し、女性性を回復すると同時に社会的弱者の視点を持ち合わせた時、その問いに一方近づいて行けるだろう。なぜなら、「シアル」とは、本質な人間を表していて、文明の中に生きる間、いつのまにか失いやすい、本来的自我をしっかりと保つ努力が常に求められているからである[34]

 

[1] 咸錫憲(著)仁科健一(訳)『考える民でこそ生きられる』、新教出版社、1992年、9頁。
[2] 咸錫憲『考える民でこそ生きられる』、11頁。
[3] 金京在(キンキョンゼ)김경재、「韓国神学胎動とその」『基督教思想』、20022月号1930年代基礎付けられたつの神学的れに、朴形龍根本主義保守神学、金在淳進歩主義的歴史神学、鄭敬玉自由主義的実存神学、李龍道聖霊論的リバイバル神学、咸錫憲土着的生命神学これらが韓国プロテスタント神学運動母体となった指摘している
[4] 朴真浩(パクジンホ)박진호「咸錫憲、シアル、そしてシアルドリ(「共同体」の意)」『シアルドリ学会誌』、1989年。

  この論文で、朴は咸錫憲が後にこの時の体験を彼が宗教人として社会参与の意識に目覚める重要な契機となったと振り返っている、というふうに記している。
[5] 咸錫憲「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」『聖書朝鮮』、19343月号。
[6] 李海学(イヘハク)(이해학)인간함석헌과사회운동(人間咸錫憲社会運動)」、シアル思想研究会、200412月。
[7] 咸錫憲(著)・小杉尅次(監訳)『死ぬまでこの歩みで』(咸錫憲著作集第一巻)、新教出版社、1991年、199頁。
[8] 土肥昭夫 『内村鑑三』、日本基督教団出版局、1975年、96頁。
[9] 咸錫憲『死ぬまでこの歩みで』、377頁。
[10] 盧明植(ノミョンシク)노명식함석헌다시읽기(もう一度読咸錫憲)』、韓国;人間自然社、2002年、508頁。 
[11] リチャード・ニーバ著・金在俊訳『キリストと文化』、大韓基督教書会、6566頁。 
[12] 咸錫憲『死ぬまでこの歩みで』、306頁。
[13] 盧明植『함석헌다시읽기(もう一度読咸錫憲)』、511頁。 
[14] 丸山真男、『忠誠と反逆-転形日本の精神史的位相』、筑摩書房、1992年、282頁。
[15] ロマン・ロラン『マハトマ・ガンディー』、2728頁(新聞『young India1920811日付ガンディーの論説)。
[16] 躐山芳郎『ガンディー、ネルー』(中公バックス)、中公公論社、1979年、24頁。
[17] 前掲書、19頁。このバクチ教義は、一般に知識を協調するヒンドゥ教の思想からは常に原始宗教やイスラム教に影響された異端の思想として取り扱われたものであった。ヒンドゥ教の正統思想が人間の差別観に立った秩序化のための思想として現実的に機能するのに対して、この思想は人間の平等観に立った差別秩序化反対の思想として理想主義的に、革命的に働くのである。
[18] 咸錫憲(著)・小杉尅次(監訳)『死ぬまでこの歩みで』(咸錫憲著作集第一巻)、新教出版社、207208頁。
[19] 咸錫憲(著)森山浩二(訳)『新しい時代の宗教』(咸錫憲著作集第四巻)、214頁。
[20] 中公バックス『ガンジー、ネルー』(世界の名著;第77巻)、58頁。
[21] 金成洙(キンソンス)김성수)『함석헌평전(咸錫憲評伝)』、韓国;인간과자연사2001年、71頁。
[22] 前掲書、7172頁。
[23] 金容駿「刊行にあたって」『死ぬまでこの歩みで』、ⅵ頁。
[24] 前掲書、241頁。1950年代の初めに、私はそれまでのわが国のキリスト教の歴史を反省する文章を書いて、『思想界』に発表したことがあった。それは私が初めて公開した文章であった。日帝時代に『聖書朝鮮』に文章を書いたことは多かったが、それは純粋にキリスト教信者に対して書いたのであって、読者数も極めて限られていたので一般社会では殆ど知る人はなかった。私があえて社会全体に向かって公言したのは、これが初めてだ。」
[25] 李海学、「人間咸錫憲と社会運動」、200412月。
[26] 金成洙『함석헌평전(咸錫憲評伝)』、71頁。
[27] 李海学「「인간함석헌과사회운동(人間咸錫憲社会運動)」、シアル思想研究会。
[28] 咸錫憲(著)・小杉尅次(監訳)『死ぬまでこの歩みで』(咸錫憲著作集第一巻)、225226頁。「私は、どんな大学にも通ったことがないけれども、その代りイエスとガンディーと共に、この大学に名前を載せることを許された人々の側に、わずかな期間ではあったけれども、身を置き得たことを仕合せに思う者である」。
[29] 孟勇吉『アジアの神学と倫理』、韓国長老会神学大学出版社、1991年、350頁。
[30] Coan-Seng,Song, Third-eye theology, Maryknoll, New York: Orbis Books,1979,p.11.
[31] 金成洙『함석헌평전(咸錫憲評伝)』、160161(Song-Hakkyu, Authoritarianism and Opposition in South Korea, P.20, P.197)
[32] 咸がここで言う「カナンの願い」とは、南北統一のことを指す。
[33] 前掲書、258頁。また、人間としての本性を保ち、「底辺の人に戻ること」をシアルの立場であると言っている(『シアル革命の夢』226頁)。
[34] 章基弘「序文」咸錫憲(著)『新しい時代の宗教』、1頁。